①「精神医学と心理学」のフーコーが投げかけた問いと考察
構造主義や哲学の枠組みで捉えられることが多い「ミシェル・フーコー」ですが、彼はもともと精神医学の研究所にいて、その後大学の心理学助手も務めていました。
そしてその頃(27歳)、1954年『精神疾患と心理学』(※1)という「精神医学と心理学の歴史」をテーマにした本を書いています。
●その本においてフーコーは、「精神の医学と身体の医学を同じように扱っていいのか?」という問いから始めます。
精神医学の基礎は、クレペリン検査で今も名を残すドイツの精神科医エミール・クレペリンによって1893年頃作られました。 彼は、今まで身体の医学で使っていた自然科学の方法論を、精神の医学にも取り入れて、精神医学を本格的な医学としての体裁と整えました。 そして、その後も自然科学の実験や観察を用い、博物学的な分類を用いて病気を分類する方向で精神医学が発展しているが、それは確かなことなのだろうか?と説いています。 それはクレペリンが精神医学の基礎を作り上げたすぐ後くらいに、フロイトなどが1895年『ヒステリー研究』などで精神病は器質的原因を持たない心因性のものであるというのも念頭にあるというるのだと思います。そう思えば、身体の医学は原因がかならず物質として確認できるが、精神の医学は原因が物質として確認できないため、性質が大きく違うのではないかと感じられます。
●また、「幼い精神状態に戻ってしまう事が精神病なのか?」とも問うています。
ダーウィンの進化論やスペンサーの社会進化論によって人の精神自体も遺伝を通して受け継がれるした流れや、更に文化人類学では未開の民族などを調べることによって文明の進歩により「心の成長」があると仮定した流れや、子どもの観察を通して精神の成長があることを見つけたルソーの流れを通して、心の成長に対して「退行」するのが「精神病である」とイギリスのジャクソンが1874年頃広めました(Hughlings Jackson1836-1911イギリスの神経学者で大脳皮質の局所的病変によっておこるてんかん発作を記載した事、発達と解体の2要素によって神経症状を説明したこと。スペンサーに影響を受けていて、1874のクルーニアン講義が進化論を精神病理学に市民権を与える)。進化論も自然科学の方法論の適用の一つとも言えます。
フロイトの精神分析もその系譜にあり、性的衝動(リビドー)が満たされず適切に成長できないとき精神障害が起きるのだとしています。ただ、フロイトは精神分析によって、確かに退行的行為(子供のような行為)を起こすが、それは過去の体験から自己の精神を守るために代わりとして子供の頃に戻ったような行動を起こすと、単に退行しているのでなく、疑似的に退行したような行動を起こすと考えるようになりました。
●更に、「精神医学は精神障害を治すことができるのか?」という抜本的な問いも、精神医学と心理学の歴史を鳥瞰して議論していきます。
フーコーによると17世紀半ばまで「精神的な偏り(狂気)」は社会に溶け込んでおり至る所で才能として認められていたといいます。しかし、17世紀半ばから資本主義の勃興により勤労こそ美徳という考えが芽生え(魔女狩りなど国王の神聖の否定に対してとかもあると思いますが)て犯罪者や貧民と共に「精神的な偏り」を持ったものは排斥されるようになったといいます。ただフランス革命時に収容所は古き時代の象徴として開放されるものの精神障害者のみなのこされて収容されます。そして20世紀半ばにようやくその人たちをサンプルに症状を分類して治療に取り組み始めたといいます。
つまり、医学的に根拠があって隔離したのではなく、隔離した末にそこから医学的根拠を確立したというのが流れのようです。
という事は、本来なら社会的に許容されていたかもしれないのに、たまたま排斥されていたから障害だとされたとも考えることができると思います。 そして、心理学は正常があって精神の偏りを定義したのではなく、偏りがあって精神の正常と思える部分を定義したと考えることもできると思います。
だから、心理学は正しい心の持ちようを研究したのではなく、精神の偏りの中から正しいのではないかとされる心の持ちようを研究したのであり、常に偏りの社会的定義と個人の問題意識に依存し続ける宿命があるのではないか、とフーコーは1950年代半ばに語ったのではないでしょうか。
こうして「精神医学と心理学」を考えている内にフーコーは哲学的視点を持つようになり、遂には哲学者として多くの認知されている物事の成立過程を、同じ時代で起こった現象から“無意識”に生じている力の作用を分析していくのです。
②ニーチェの影響
因みに、この視点はニーチェを読むことが発想の源になっているようです。1850年前半に『精神医学と心理学』を執筆する少し前にニーチェの文献を読み、キリスト教の常識を歴史的系譜から問い直したように、多くの物事を歴史的系譜から問い直したようです。
『ミシェル・フーコー 主体の系譜学』(内田隆三、1990、講談社現代新書)によると、1952か1953年にニーチェを精読していた様子が窺われ、1953年の夏には『反時代的考察』を読んでいた印象的なエピソードがあるようです。
また、ミシェル・フーコー自身も構造主義でなく、「ただのニーチェ主義者」といってはばからなかった面があるとも書かれています。またニーチェの『愉しい学問』においての発言が「「歴史」的な経験のなかで、西欧的人間の同一性、主体性がどのようにして成立したのか、という系譜的な問題意識が主題化」とも書かれています。
「人間の生と存在を貶め、あるいは支配する超越的な彼岸の価値を、ニーチェは徹底的に解体しようとする。」そして、「フーコーもまた人間の終焉を予告し、人間的な主体の系譜学的解体を行う」様は、磯崎新などのポストモダンの流れを感じますね。
③フーコーの初期の生涯
1926年フランスに生まれる。
1946年「Ecole Normale(エコール・ノルマル) Superieure and University of Paris」に属す(wikipedia 『Foucault』より)。多分大学だと思う。
1948年父親の強権でサンタンヌ(Sante-Anne)心理学研究所のジェーン・ディレイ(Jean Dely)のもとに送られる。 また教授資格試験のチューターをしていたルイ・アルチュセール(Louis Althusser)と知り合い、マルクスの影響を受ける。共産党に入って幹部の覆面作家になったとも。 自殺未遂(同性愛での悩みもあったよう)。
1950年、教授資格試験に一回落ちる。
1951年、教授資格試験に受かる。この年からハイデッガーを翌年にかけて精読する。
1952年、この年辺りからニーチェを精読し始める。
1953年、リール大学文学部の心理学助手を務める。リールには住まずパリから通う。「フーコーはコルム街のエコール・ノルマルで心理学を教えており、フロイドを扱っていた。彼は、マルクスの唯物論からハイデッガーの実在主義へ、パブロフの条件反射の理論からルートヴィヒ・ビンズワンガーの現在分析へと移って行く、思想的な過渡期」(※2)
1953年、ニーチェの『反時代的考察』を読む。
1954年『精神疾患と人格性』出版。「ジャン・ラクロワ監修の「哲学入門シリーズ」の一つ。」(※2)ヒンズワンガーの『夢と実在』を仏訳。